アニメ虹ヶ咲の感想文 8話 -桜坂しずくちゃんの想い-

 「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」のアニメ第8話を視聴しました。7話の次回予告からすでに不穏な空気はありましたが、なかなかに深く思い内容のしずくちゃん回となっていました。

 今回の話では、しずくちゃんの内面に焦点が当てられていましたが、スクスタでの展開とはかなり異なるものとなっています。ざっくり言うと、スクスタでは「桜坂しずくというひとりの人間によるスクールアイドルとは何か?」であるのに対し、アニメでは「桜坂しずくというひとりの人間の本当の姿とは何か?」と、より内容が抽象的かつ哲学的なものになったという印象です。また、スクスタでは「演じる」ということが単純に好きである少女として描かれていましたが、アニメでは「演じる」ことで自分を守っていたという設定が増えた(変更された)というのは非常に大きな違いであると思います。

 アニメの中では、しずくちゃんの葛藤を表すように白い衣装を着たしずくちゃん(以下「白しずく」)と黒い衣装を着たしずくちゃん(以下「黒しずく」)ちゃんが語り合う場面が数度訪れます。はじめは黒しずくちゃんには、しずくちゃんの負の側面が投影されていると思って見ていましたが、前半の終盤では「自分を曝け出して嫌われるのが怖い」という気持ちだけでなく「自分を曝け出してみんなの心に届く歌を歌いたい」という気持ちも黒しずくちゃんは語るようになりました。
 では、何がきっかけで黒しずくちゃんの語る内容に変化が生じたのかというと、それはやはり一年生組と一緒に遊んだということでしょう。ここでは、昔の作品が好きだという周囲に隠していた嗜好や、演じているときは自分のことを忘れられるといったことを、少し曝け出してしまったしずくちゃんが描かれています。思わず口からこぼれてしまったように自分のことを話したしずくちゃんの様子を見ると、彼女自身は本当の自分のことを誰かに知ってもらいたいと心の底では思っていたように感じます。とすれば、黒しずくちゃんの役割というのは負の側面を担うだけでなく、しずくちゃんの精神全体の動きを表していたのだとこの時気づきました。

 この後、「嫌い、こんなわたし」と自己嫌悪に陥るしずくちゃんですが、ここまでの流れから「こんな『わたし』」とは、多くの意味をもつ言葉だと感じました。たとえば「嫌われることを恐れて自分を曝け出せない『わたし』」「そのくせ、誰かに本当の自分を知ってもらいたいと思っている『わたし』」といった、「どっちつかずの『わたし』」に嫌悪感を抱いているように私は思います。
 しかし、璃奈ちゃんが「今のしずくちゃんしずくちゃん」と言っているように、どんな『わたし』も『桜坂しずく』の一側面であることに変わりなく、たくさんの『わたし』によって『桜坂しずく』というひとりの人間が形成されています。その『わたし』の中には、いじっぱりだったりガンコだったりと、人から嫌われてしまうかもしれない性質の『わたし』がいます。それでも、それらを全てひっくるめて「わたしは、『桜坂しずく』のこと大好きだから!」とかすみちゃんが言ってくれたことが、しずくちゃんの沈んだ気持ちと隠していた自分を引っ張り上げてくれたのだと思います。

 そして舞台に上がったしずくちゃんは、役を演じながら、自分の心の中を吐露していきます。実際の舞台にも白しずくちゃんと黒しずくちゃんがおり、演出としてふたりのしずくちゃんが一つになって、ふたつの衣装を混ぜ合わせたような衣装をまとったしずくちゃんが現れます。この時、同好会のメンバーが贈ったチョーカーは変化せずしずくちゃんの首で輝いています。
 このチョーカーには「仲間の証」と「桜坂しずくの証」という意味が込められているように思いました。前者については、しずくちゃんにはしずくちゃんを大好きな仲間(味方)が常に一緒にいるというメッセージ。後者については、スクールアイドルでも、演劇部でも、仮面をかぶっていても、本心を曝け出しても、どんなしずくちゃんでも『桜坂しずく』であることに変わりはないというメッセージが、衣装が変わっても変化しないチョーカーに現れているように感じました。

 ライブパートで披露された曲は「Solitude Rain」。直訳すると「孤独の雨」のような意味になりそうですが、Solitudeには「さびしい場所」を指す使い方もあるそうなので、今回しずくちゃんが主演を務める公演の演目名にもなっている「荒野の雨」ともとれる曲名となっています。この曲は舞台での演出面が非常に印象的で、しずくちゃんの背後にみっつの影が伸びるように照明が当てられています。この影がそれぞれ何を意味するかは様々な意見があると思いますが、私は「エス・自我・超自我」であると考えています。これらの詳細は割愛させていただきますが、ここではエス(本能)、自我(エス超自我の調整)、超自我(理性)という形で扱います。しずくちゃんにとってのエスは「本当の自分を知ってほしい」、自我は「いい子を演じる」、超自我は「本当の自分を出して嫌われたくない」だと私は考えており、この全てが『桜坂しずく』を構成する上で欠かせないものだと思っています。曲の最後にはみっつの影がしずくちゃんの下に集まって一つになるというのも、これまでの葛藤を経て「本当の自分を曝け出す」というひとつの答えを出したというように捉えることができ、エス・自我・超自我が調和した結果だと感じました。(心理学的な話をもうひとつすると、黒しずくちゃんが仮面を着けていたのは、パーソナリティの語源である「ペルソナ」に由来してるのかなとか思いました)

 本当の自分を隠す、という行為は誰しもが一度はやったことがあると思います。しかし、「本当の自分を知られたくない」と思うのと同じくらい「本当の自分を知ってほしい」という想いは強いものです。そして、それは同時に「本当の自分を受け入れてくれる人」を望む想いでもあります。アニメでは、かすみちゃんをはじめとする同好会のメンバーは自分を受け入れてくれると信じることができたからこそ、しずくちゃんは本当の自分を曝け出すことができたのでしょう。改めて虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の絆の深さを感じさせてくれる内容だったと思います。
 次回はおそらく個人のメンバー回ラストとなる果林ちゃんの回です。「仲間でライバル」というこのアニメのキャッチコピーにもなっているタイトルですが、どのような内容となるのか、次回の放送も楽しみにしていたいと思います。

 

 

余談
 今回のタイトルである「しずく、モノクローム」ですが、白と黒のしずくちゃんが出てくることと、しずくちゃんが好きな昔の映画はモノクロだったこととかかっているんでしょうか。また、モノクロの映像は白と黒の両方があって初めて成り立つものなので、「自分を曝け出す」ことと「自分を隠す」ということはどちらもしずくちゃんにとっては必要なものだった、という意味も含まれていたのかもしれません。